みどみどえっくす

元NO.1風俗嬢がゲスに真面目にエロを語る

すれ違いのアジフライ

感情が欠落したまま虚無の空間を覗いていた。

深夜のTwitter、タイムラインでの出来事であった。

 

そのころ入退院を繰り返していた。なにをしたところで上手くいかず、体調もすぐれずに鬱屈とした気分を抱えつづけた。所在地、出処ともに不明とした、のたうち回る感情の渦に心が浸され、夜もなかなか寝付けなくなっていた。

確か手術を終えたばかりだったと思う。やっと終わったのだという安堵といささかほどの希望の中に、この先どうなってしまうのだろうという不安と、味気ない日常の繰り返し。もう辟易していた。明日も新しい一日が始まったとして、別にどうとなくやり過ごすのだろう。むしろ朝日が劣等感を照らす恐怖の対象ですらあった。

病は気からとはよく言ったものだ。積み重なったフラストレーションの中では張り合いが抜け、なにを考えたところで気が滅入る。湿気たマッチのようにちょっとで良いのに燃え出さないし、別に何もないのにやり切れない。もはや感情と神経とがバラバラなのである。

なにも青い顔を伏せるほどではない。しかし、逆に本能的に羞恥と劣等感を隠すためともいえよう、日々肥大化していく傲慢さと卑屈さ。

ちくしょう浮き草のような人間になったものだ。卑屈すぎてどこの土にすら受け入れてもらえず、しまいには負け目がコケのようにこびりついている。それだけではあるまい、なんと根まで腐り切っているのである。おまけに愚図だ。いや、違う。自分はこんな人間じゃなかったはずだ。それなのに・・・

もつれ合った感激の最後に、あぁなるほどもしかするとエキセントリックな老害というのは、こうして誕生するのだろうと感じた。本来、土は時代ごとに新しいものへと変わっていくはずだ。残念ながらリサイクルなどされない。その新しい土をも受け入れられず、浮き草となり根までもが腐っていく。自分はまだ、世間一般的に見れば「老害」と呼ばれるに及ばない歳である。しかしどうやらその浮き草の正体が私らしい。

老害といえばそれにプラスして、老いさらばえた思考、 傲岸なアクの強さ、気の弱さを思わせる批判的言辞。それらはつくづく人の心を慮ることをせず、粗末に過ごしてきたであろう時間が、己に侵食した証である。そして新しい土に根付くどころか、菌をばらまくために加担する病害虫。これの正体が老害なのだ。

時代が繰り返す仕組みを一知半解で得意に理解できたつもりになった。自分のことを棚に上げ、こういう人って若いのにSNSにもよく居るんだよなぁと雑作なくTwitterをスクロールした。そのときの私はといえば、まったくもって意地汚い顔であっただろう。まるで動かないタイムライン。停滞した気持ちの中でなんとなしにやり過ごす私の日常のようである。

ついさっきまで、きっと無数の人々がしょうもなく気味の悪い承認欲求を、まるでお披露目会のようにせわしなくアピールし合っていたくせに。それはちっとも珍しいことではなく、多分に儀式的なものだ。なるほどくだらん。これじゃあまるで、決まりきった味気ない病院食のほうがいくぶんかマシだなと鼻で笑ったとき、一通の通知が届いた。

なんてことのない、いわゆる「FF外」からのいいねであった。つい今しがた他人の承認欲求を「しょうもなく気味が悪い」などと言ったくせに、いざ自分のツイートにいいねがつけられると気持ちが緩むものがある。しょせん自分だって承認欲求の塊なのだ。

しかれどもこの動かないタイムラインで同じ時間に、この同じく虚無の空間を覗いているという事実に、妙な仲間意識があった。「同じ穴のムジナ」とか「目くそ鼻くそ」とかいうネガティブな意識ではない。なにかこう、モノクロの残像の中に一点だけ色を足したような、粗雑に羅列した文字の中でそこだけがクリアーに交わっていることが、なんだかとてつもなく運命でロマンチックなこととさえ思えたのだ。

私は「こんばんは」の意味合いで、同じように相手のツイートにいいねを押した。すると間もなく、同じように再度のいいね。このやり取りを何往復繰り返しただろう。私はそっとフォローボタンを押した。するとまたもや同じく。「フォローしました」の通知であった。

私たちはそれからも何日も何か月も、「いいね」のやり取りだけで、言葉をしばらくのあいだ交わさなかった。いいねが来たらいいねを返すし。いいねをしたらいいねが返ってきた。そんな一見、事務的なやり取りではあったが、でもなぜかそこにはいつも特別な意識があった。少なくとも私はそう。

140字もしくはそれ以下で綴られた日常は、ユーモアかつどことなく稚純で、私はそれをいくつもいくつも指で追った。甘い空気を纏っていたかと思えば気だるさの中に露を宿し、夢のしたたりのような温かい言葉を連ねたと思えば、硬質なガラス細工のように繊細で、砕けども宝石のように光る美しい感性を紡いでいた。それらのつかみどころのない魅力はまるでプリズム的であり、見れば見るほどに不思議な人だと感じた。きっとそれはその人自身の懐具合を表したものなのだろうと容易に想像がついた。

それから何ヶ月たっただろうか。いつものように「いいね」のやり取りをしていると、ついにリプライが残された。そのときの言葉はこう。

「ブログの隠れファンです初めまして。

突き抜けた感性を

文学的文章力で綴る表現力の高さ

ドライな様で

ロマンチストの様な

相反する感じが人間的で

なんかこう

凄い感じで

あれですよ

あのー

凄い感じで

凄い好きです(語彙力)

では隠れファンなので隠れます。」

文字通り心臓が高鳴った。驚きで呼吸が狂い、喜びが照り出すように全身があつくなった。私もまったく同じことを相手に対して思っていたからだ。「ドライな様で ロマンチストの様な 相反する感じが人間的で」こう言ってもらえるならば私はこう表現した。「甘い空気を纏っていたかと思えば気だるさの中に露を宿し」これである。

粗雑で、だけど虚無的に歪んだ空間の中でたまたま交わったことが、運命とさえ思えていた。考えすぎといえばそれまでだが、でもこう、何だか名状しがたい何かがあったことは確かだった。理屈で語れない。つかみどころのない気持ちを自分で納得させるにはその事実だけで十二分であった。本能的な直感とはそういうものだ。

それから私たちは何度も何度もやり取りをするようになった。「ファンレター」と称し、DMでやり取りすることもたまにはあった。すごく嬉しかった。なにせ「いいね」のやり取りだけでゆっくり大事にしてきた関係だったのだから。しだいに私は相手のことをもっと知りたいと思うようになった。非常に自然なことだったと思う。

しかし踏み込めない何かがあった。ユーモアやバイタリティの中に時折見え隠れする、アンニュイさを帯びた雰囲気。それの正体が何かわからなかった。しかし過去になにかを抱えているのであろうことは確かだった。聞いてもよいものか、しかし・・・途端に自分がとても無粋な人間に思えた。強いて言うならば交差点を斜めに、強引に横断するような非情ささえ感じた。ここまできてうまく交われない、交差できない。それを現実でも象徴するようなエピソードが一つある。

それはいつだったか、初夏のことであったか、地元で有名な定食屋に昼飯を食べにいった。そこのアジフライが絶品で、迷わず写真におさめツイートしたのだ。すると間もなくして相手からリプライが届いた。そのリプライに私はまたもや呼吸が狂い、度を失った激しい興奮が感情を凝結させた。そのときのリプライがこう。

「素で変な声出ました

さっきそこでアジフライ定食食べてましたよ」

なんとそのリプライには私と同じような画像が添付されていた。しかも幼い頃から何度も通い詰めた行きつけの店であるから、その画像からどこの席に座ったのかさえ想像に容易かった。ほんの一時間か二時間ほどの差であったか、それなのにここまで来てもなおすれ違うのか。妙に残念な思いではあったが、それと同じくらいに妙に可笑しく思えて締まりのない口元で笑ってしまった。きっとこのすれ違いが私たちらしいのだろうな、と何だかくすぐったく思えてしまったのだ。

それからといえば、私たちの関係はいまだ鮮明に像を結ばない。だがそれで良い。性質を変えない関係は、ままごとのような愛よりももっと、慕情であるほうが美しいからである。

そして今夜もまたきっと、先刻まで確かに存在していたはずの人々が残像となりいくつも連なり始める。

もはやそれは客がいないのに稼働し続ける深夜の遊園地のようであり、鈍く流れ続けるそれは、静かで不気味だがとても落ち着くのだ。

モノクロの残像にハートで色をつけるとき、虚無と孤独が凝結されて心が潤う。

 

深夜のタイムライン。

 

あなたと、私だけ。