みどみどえっくす

元NO.1風俗嬢がゲスに真面目にエロを語る

深夜3時に恋をした。

「深夜3時に恋をした。」

 

Twitterを開くと、ある男から私に対し一言、そうリプライが残されていた。

リプライの表示時刻は「3:05」。

何の装飾もないシンプルな言葉に、不覚にも心が揺れた。

その一文から受けた印象は、まるで氷点下の水面を覆う薄氷のような、今にも割れそうで若干冷たく寂しい、そんな泡沫で儚いものだった。

しかしその中に見え隠れする、温かく稚純でセンチメントな情調に、思わず感情が昂ぶる。

どういうわけか胸が熱く乱れ、火力調整が不可能なほどに熱が上がった。

この寂しく切ない心の震えと、燃えるように熱い胸の疼き。

それは隣接することはあっても決して共鳴はし得ない、複雑で、そして至ってプラトニックな感情だった。

私はそのとき、この感情こそが女の業なのだと感じた。

そしてこのたった一文に、恋をした。

 

日頃から活字を目にすることは多いが、まるで事務的に連なるそれは、例えアンチックであっても心の角までもが取れることは少ないし、更にはどんなに甘いフレーズであっても、心がふやけることはない。

しかし、「深夜3時に恋をした。」もしもこの先に続きがあるのなら、一体どんな文章がどんな言葉で紡がれていくのだろうか。

それはきっと、私がたった今想像した展開だろうか。それとも・・・

鮮明に像を結ばない濃霧の彼方で、そんなことを延々と考えてしまうほど、何の因果か私はこのメッセージにどうしようもなく惹かれてしまったのである。

悩んだ末、私が返信したメッセージはこう。

「そのタイトルのブログ記事が読みたいです。とても。素敵・・・」

そしてそこには「ハート」が一つ、残された。

 

期待していたわけではない。願望はあくまで、メッセージに対する感想のつもりだった。

まるで今にもストーリーが展開されそうな、そんな奥行のある素敵なフレーズだったということを伝えられれば、それだけで良かった。

しかしそれから2日ばかりが経った深夜、Twitterに一通のDMが届いた。

差出人は、その男。

「記事を書いたので、公開するより先に見てほしい」とのことだった。

無論、答えはイエス。そう冷静に言うものの、正直なところ待ちきれない気持ちの方が大きかった。

送られたURLをクリックする。タイトルはもちろん、「深夜3時に恋をした。」

しかし内容は最初の一文から、私の想像に全く反したものだった。

その記事の書き出しはこう始まっていた。

 

「そう、あの時の客だよ。覚えているだろ?」

 

それが目に入った途端、まるで恋心のように切なさと高揚が一緒くたに混ざり合い、動脈がしぶくほどに沸きたつのが分かった。

そしてこの書き出しの正体が一体何であるのか、乞い願うメロドラマとノンフィクション、リアルと創作の狭間で心が錯綜した。

その時に送られてきた記事がこちらである。

これからの話はこの記事を元に進めていくので、先に目を通しておいてほしい。

note.mu

 

私が風俗嬢を辞めたのは、あるお客に理不尽極まりない扱いを受けたからである。

異常なまでに執着していた仕事そのものが嫌いになり、その日のうちに、店のスタッフの話も聞かず半ば強引に辞めた。

これまで散々世話になり、散々愛してきた顧客に対し、一番仇を投げつけ裏切る形で逃げた。最悪の幕引きだったと思う。

その呵責が尾を引き、未だ悪夢のように心を渦巻いている。

そして叶わぬ懺悔の火が、いつまで経っても熱く心をただらせる。

その男に対し思うことは、一言で、会いたい。しかし、「いや、まさかね・・・」。

期待を裏切られる予想に耐えられず、感情的な要素を未消化のまま無理矢理どかし、文を読み進めた。

するとそこには、互いにしか分かり得ないメッセージが隠されていた。

私が望んだ「リアル」があった。

しかし、脳に沸き立つのは感情のオノマトペばかり。

冷静を保とうとすればするほどに、そこに二の句を継げる余裕などなかった。

一番望んだはずの展開に言葉を失った挙句、私は彼のDMにどう返信したら良いのかとても悩んだ。

 

欲望に狂う人間は美しい。そしてその欲望は、毒々しいほど更に美しい。

渇きかけた欲望が最後の死水を求め、ドロドロと渦巻いているほど、燃える。

そして例えよそよそしかった2人でも、互いに欲望をさらけ出し合えば、帰る頃には「愛」の性質を変えている。

そこにはもしかしたら、共犯者にでもなったかのような心やましささえ残るが、それは自滅を意味するものではない。

しかし、客として出会った男のそれは「欲望」とは少し違った。

物憂いなコミュニケーションに隠された熱度は、決して捌け口を必要としない、渇きに締め付けられた愛の痙攣に似ていた。

精神的なプラトニック・ラブを意味するそれは、口先だけの「愛してる。」そんな陳腐な言葉では渇きを潤せない。

時間の積み重ねでしか愛情を深められないのなら、せめて気持ちの密度で心の隙間を埋めたい。

そして指の付け根に至るまで愛したころ、男と私は互いの目に涙らしい光の影を宿していた。

今思えば、男が抱える渇きを帯びた愛の痙攣は、希薄だからこそ輝く「氷点下の水面を覆う薄氷」のような、儚く切ない愛だった。

それは「深夜3時に恋をした。」この一文を目にしたときに感じた、温かく稚純でセンチメントな情調と全く同じものだったのだと、ようやく合点がいった。

 

送られた記事に綴られた文章には、時折重く蒸す夏の夜のような、鬱屈した男の感情が留められている。

しかし読み進めていくと、それは次第に、闇に漂う冷気のような若干の清々しさに性質を変えていた。

一文字一文字読み進めていくごとに、文字は巴を描いて飛び散るように、私の中で躍り輝いた。

そして最後には、それとはまた別の美を宿す、まるで寒凪のような情調。

弱々しく、しかしだからこそ柔らかく差し込む冬の日差しのように、温かく静かに鎮静していく男の心情が描かれていた。

輪郭を鮮明に現した過去の記憶は、シュールに分離していく心の違和感はまるでなし。

男が書いた文は、あの時涙を流し互いの倦怠を必死に拭いあった時間は、決して一瞬間のものではなかったのだと、深く私の肺腑に染みた。

 

私は、今でも変わらず思うことがある。それは、「あなたに会えて良かった。」

私にとっての男の存在は、たまたま通り過ぎただけの淡い影ではない。しかし、「愛は真心、恋は下心」。

全く似つかない互いの愛情を更に互いの体温で中和し、身体を重ねることで交換し合った夜を思い出しながら、私は今、この記事の公開ボタンを押している。

 

 

 

* 

さて、このお話はリプやDMのやり取りを除いては、実のところ全て創作なんですよ。ふふふ。

リプ欄から生まれたたった一度のやり取りが、こんなに面白く素敵な展開になろうとは思いもしませんでした。

ろぎおさん、素敵な文章と大切なお時間をいただき、本当にありがとうございます。

そして読者の皆さん、お読みいただいてありがとうございました。

創作初めてだったけど、楽しかったな。では、また。

「愛している」は、また今度。。。

お久ぶりです。

こんにちは、こんばんは、おはようございます。そしてあなた、初めまして。

先日手術が終わって、現在療養中でございます。

せっかく療養しているんだから、この際スマホとかいらないかもねと思い、Twitterのアプリ消去から始まって色々と電子機器に触れるのは久しぶりですの。

と言ってもここ何日か、ですけど。

 

わりとツイッターなんかも、通知が来てるとつい見ちゃうんですよね。

でも情報化社会で電子機器に触れないっていうことが、今後の人生でもしかしたら今しかないんじゃないの?と考えたら、一旦離れてみるのは本当に良い機会だなって。

と言ってもここ何日か、ですけど。

LINE、メール、DM、リプライくださっていた方、先に言っておくべきでした。

心配かけてごめん。生きてます。生きてます。生きてます。

そして返信していなくてごめん。生きてます。生きてます。生きてます。

 

一度放り投げてみると、こんなに小さなスマホ一台に、こんなにも制限されていたのかとキョーガクした次第です。

自由だった。素敵だった。

ただそう思えるのは、今病院の中で守られているからで、自分の居場所も確保されているし、待っていなくとも誰かしらがお見舞いに来てくれるのが分かっているからなんですよね。

気にかけてくれている人がいるという事実が、今日も明日も明後日も明確だから。

SNSにおいても、待っててくれる人が少なからず1人はいるという自負があるから。

そう考えたら、安易に「スマホに制限されていた」と言ってしまうのは、ただただ反抗期の子供みたいだなって。自分に対してそう思いました。

 

例えばSNSの場合。

情報を取捨選択していく権利を与えられているにも関わらず、その権利を放棄して、放棄したのは自分にも関わらず、抱えきれない過多な情報に疲弊し消耗し、挙げ句責任の所在を全てSNSにぶん投げてしまう。

これが出来るのは、少なからず守られている自覚があるから。

でも本質はSNSが悪いんじゃないし、SNSが疲れるんじゃない。

そもそも情報選択の術があるにも関わらず、「SNS疲れ」という言葉に任せて「もう疲れた、もう嫌」と責任の所在を全てSNSに転嫁してしまい、挙げ句情報選択においての権利意識が低いのもまた諸悪。

権利意識が強い人は苦手だけど、文句言うくらいならそこの権利意識は強く持とうよと。

そして受動と能動を履き違え、権利という言葉を誤想し、ネットリテラシーの低い人は文句ばかりをつらつら述べる。

無論、私のことです。

 

今自分がSNSにおいて一番考えなくちゃいけないのは、SNS各種あるいは玉石混合な情報にどうやって向き合っていくかで、その上で情報は「善・悪」「正・誤」だけでなくグレーの存在があると認めることだと思う。

正解でも不正解でもない、地味な本質を見極めること。

そして本来、情報の価値を判断するには、まず要らない情報をどんどん捨てていかなければならなくて、残ったものの中から自分に合う正解を抜き出す作業が必要だと思ってる。

しかしこれがネットリテラシーの低い自分にとっては、極めて難易度が高く勇気がいる作業。

自分はグレーを認められず、ほぼテンプレで判断してしまう傾向にあるから。(最近は幾分かマシかも・・・)

ビックリしますよね。それが出来ないから苦しんでるんだけど。

だからSNSに自分の居場所を求めてしまうのは、極めて危険な行為なんだよと。

だってライトで無責任な情報ばかりに飲み込まれたら、疲弊して心が死んでまうってば。

あっちではこう言ってる。こっちではこう。挙げ句、会ったこともない人の心無い一言に、モロに傷ついてしまう。

 

少々小さい事を言わせてもらえば、自分の場合は手榴弾のように飛んでくるアンチやクソリプの一言一言に(Twitter)、とんでもなく疲弊してしまったり逆にプレッシャーを感じてしまって、何をつぶやいたらいいのか、何を書いたらいいのか、全く分からなくなってしまった。

次は何と言われるのか考えると、怖くて。

そして自分はそんなつもりはなくても、全く意図しない方向に捉えられたり、言葉、更にはコミュニケーションっていうのは本当に難しいなと感じることが多々ある。

本来ならば、自分が発した言葉っていうのは全責任負うべきだという考え。

だから自分の発した言葉についてのレスポンスについては、例えアンチであってもクソリプであっても無下に出来ないし、ブロックって本当にしづらい。

しかしその反面で、そういう場合には「もう返信が返って来ませんように」と願ってる自分もいる。

最悪ですよ。なんかおざなりだし口ばっかだなって。

そのハッタリは、極めて無意味で綺麗事。

そして「あぁ、そういう捉え方されちゃうのね・・・」っていう出来事が続くと、怖気づいてハリボテな言い訳しか出来ない自分が、いよいよ辛くなってくる。

もっと堂々といたいですよ。

でも、そんなに前向きじゃない。

面倒だな、だったらもう構うなよほっとけよ。そう思っちゃうような人間なんです。

だからコミュニケーションは向いてないし、SNSはもっと向いてない。

挙げ句「しょーもな」と思ってしまう自分もいるわけです。

でも受け手の感じ方はそれぞれで、色んな意見があって当たり前。

無責任なクソリプ以外は、批判的な意見も受け入れて然るべきだと思う。

場合によっては、そういう表現しか出来なかった自分を嘆じることもある。

ここについては、色んな気持ちが錯綜しているような感じ。

 

Twitterに関して更に言えば、数値化されただけの「共感」「共鳴」、指先だけの「いいね」に必要以上にプレッシャーは感じないでいたい。

でも「ハート」はちゃんと受け取りたいし、受け取ってほしい。気持ちだから。

そして、バロメーターがあったらもっといいよねと思う。

ひとつも「いいね」がついていないツイートに、「100いいね」つけたい共感を抱くときだってあるもの。

逆にバズってるツイートが、全く味気なく感じるときだってある。

何なら日に何度もTLに上がるソレに辟易して、ミュートをかけるときすらある。

そういうもんですよ。

大事なのは共感の数じゃなくて、共感の「濃度」だと思ってる。(と、Twitter界もといニンゲン界の藻屑が申しております・・・)

リアクションにくだらない義務感だって、抱く必要はないかなとも感じた。

 

しかし、かくいう私も、Twitterにはとても助けられています。

例えば落ち込んでしまったとき。

友人が少ないし、リアルだとあまり愚痴を言えない性分なので(意外でしょ)、泣きたくても泣けないし気持ちが浄化、消化出来ない場合が多い。

苦痛な時間をひたすら苦痛な時間で上書きして、濃度が薄れていくのを待つしかないんですよ。

そういう時にTwitterで仲良くしてくれているあの子やアイツは、いつもわざわざ気にかけてくれて、直接的な関与はないにせよ、笑わせてくれたり励ましてくれたりする。

「愚痴はどんどん言いましょう!」と積極的に声をかけてくれる人もいる。

それでもなかなか言えないんだけどね。なんでかな。

愚痴を言うにはそれ相応の責任を背負うべきで、更に状況の不満を嘆くっていうのは自分の責任を回避し、挙げ句自己否定にもなりかねない。

結局利己的で自分が可愛いんだよね。だから安易に「本格的な愚痴」はなかなか言えない。大抵、諸刃の剣でしかないから。

でも逆に、嬉しい気持ちを共有してくれる仲間が多いのも、Twitterなんですよ。

このツイート見てほしいっていう人の顔が、画面の向こうにまず浮かぶ。

その人が「いいね」でハートを届けてくれると、本当に嬉しいもの。

更にはリプ欄、通知欄にお顔(アイコン)があると、なんでか安心してしまう。

あなたのことだよ。いつも本当にありがとう。 

 

とにかく、不必要な情報を取り込み、得体の知れない何かを消耗する余力があるのなら、それより先に誰かの所に実情のあるハートを届けたい。

「もっとこうして欲しい!これは嫌!」よりも「人の為に何かが出来た」に重きを置けるほうがいいかなって、ここまで語っておいてそれすら漠然なんだけど。

満たされない欲を嘆じるよりも、自己の本望に浸る甘美な人生でありたいですよ。願望はね。

その為にはやっぱり、取捨選択の技術は必要だと思うわけなんです。

 

何でか今日は、中学生のSNSの使い方授業みたいな内容になってしまった。

無論、その中学生とは私です。

常々頭の中では、こういう誰しもが当たり前に分かっているようなことを、延々と考えてはウジウジと悩んでいます。

どうです?幼稚でしょう。

でも、次回はとびきりエッチなのを書きたい。

「大人の女」にしか書けないようなものを。(とか言っておいて、また「糞」とかそっち方面のような気もしなくもない。てか絶対そう。)

とにかく今日言いたかったことは、生きてます。生きてます。生きてます。

これからまた、少し寝ます。

ではまた、ごきげんよう。いつも本当にありがとう。好き。大好き。

だけど「愛している」はまた今度。。。

生煮えの感情と、甘美に火照るチョコレート

それはまったく温度差の違うチョコレートが混ざり合うような、粗い口当たりにしかならないいびつな思いだったのだと思う。

単一方向に溢れ出る稚拙な感情はたぶん、一生届くことがないし、更に言えば自分には相手の思いを受容できるほどの度量も無かったのだなと。

今更後悔しても仕方ないのだけど。

 

煮えたぎる熱い情炎を抱えながらも、何故か到底触れられず。

極めて繊細に、沸点を越えていくような荒々しいことは決してしない。

体温よりも若干高い約45度でゆっくり溶かし、ムラなく混ざり合うことを私も望んでいたのだけど。

だけど、どうしてもそれが出来なかった。

粗末極まりない私から発信される「愛」はどこまで行っても稚拙で、言うなれば底辺を這うような憐憫な出来。

まるで温度差を分かり合おうともしない粗暴で手荒な「情」は、愛にも、ましてや恋にもなりきれずに、狂気になるか凶器になるか。

はたまたそれは、心の底に澱(おり)となって消火(消化)出来ずに沈んでいくしかない。

そしてついに愛想を尽かされたとき。

それはテンパリングに失敗し組織の粗くなったチョコレートのように、硬く凝固した彼の気持ちをただ受け入れることしか出来なかった。

最後に言われた言葉はこう。

 

「これだけ頑張っても、何も伝わらないんですね。」

 

本音を言えば否定したいけれど、彼から見たらまったくその通りだったのだと思う。

咄嗟に言い返したいことだって少しはあったけれど、でも彼の気持ちを思うと返事さえできなくて。

とても言葉にならなかった。

それは逃げなのか。自己保身なのか。

すりガラスを必死に覗くような、まるで掴みどころのないこもった感情。

ズルいと言われればそれまでなのだけど。

だけど何を言ったところで、挙げ句「ごめん」と一言謝罪したところで、全ての言葉が凶器にしかならない気がして。

 

私が彼にしてきたことといえば、甘く繊細なチョコレートを濃く苦いブラックコーヒーで強引に流し込む。

甘味を苦味で上書きするような不均一な混じり方は、「分離」とも言い切れない。

それはまったく後味の残らない、極めて乱暴な「愛」だったのだと思う。

とても一緒くたには混ざり合えない、生煮えの感情しか抱けない自分を恨むことしかできない。

そして私は常に「誰かのためになりたい」とか「誰のことも愛したい」など、さぞかし最もらしいことを言っておきながら、いざ現実に心の重心の置き所を探してみれば

 

「愛し方がわからない」

 

そんな幼稚で愚かな理由で、常に彼の心を乱暴にかき乱していたのだなと。

 

どうしても真正面から受け入れることが出来なくて。

とても怖かった。

それは彼を否定するわけでは決してなく、上手く愛せない自分自身に今更悍ましいほどの嫌悪を抱きたくなくて。

必死に隠していたはずの、片生な自意識が見事に露呈した結果だった。

なんとも無様なありさま。

 

思えばほろ甘い、甘美に火照るチョコレートのような人だったと思う。

気持ちが通い合う時には、滑らかに溶けたホットチョコレートのように、こちらの心まで温かく覆いつくしてくれるし。

すれ違いが続いてみれば、凝固し分離していく冷え切ったチョコレートのように、たちまちこわばる。

過当(加糖)に心に沁みる、そんな原始的な甘みを含んだ彼の言葉は、いつも息を呑むほどに繊細で柔らかく。

淡つかな日常に注がれる華奢な声色の端々には、いつもなぞるように「愛」が紡がれていく。

それは幾度となく、存在し得なかったそこはかとない私の中の「愛」の機微に触れた。

 

でも何故なのか。

その甘さは、決して捉えることが出来ずすぐに消えていく。

反してほろ苦さだけが後味として残るのは、私の心が醜く歪んでいるからなのだと思う。

黒々と大口を開けた穴のような私の心には、彼のとても純粋な言葉では引っ掛かりがまるでなく、引きも切らずに手から逃げてしまう。

滑らかに溶けきったチョコレートは、ザルの目にさえこびり付くことが出来ず跡形もなく流れていくのと同じで。

それはたぶん、滑稽な自分の言い訳でしかないと分かっているのだけど。

 

例えばまったく違う種類のチョコレートが一揃いに混ざり合い、一つの「個」として分離不可能になってしまえば。

それはただの依存なのか。

はたまた共存なのか。

そんなことも分からない稚拙な愛情は、「凶器」にしかならないことを知った。

 

 

「無理言って。

無理言ってくれたら会いに行く。

1時間でも2時間でも。」

 

互いに時間がまったく合わなかったことに対し、そう言って彼が送ってくれたLINEは未だに残っているのだけど。

その気持ちをもっと大切に出来るような人間だったなら、今頃どんなに良かったか。

おざなりにしていたわけではない。

愚弄していたわけでも決してない。

けどそんなことすらどことなく人ごとのように言えてしまうのは、私がひどく冷淡で愚劣な人間だからなのだろう。

「これだけ頑張っても、何も伝わらないんですね。」

そう言われても当然だと思うし、言われない方がおかしい。

 

愛を委ねる気持ちの反対側には、必ず見返りを求める自分がいるし。

でも「抱きしめたい」と思う気持ちに、嘘偽りはなかった。

それが例え、ゴミ箱のようでもいい。

どんなに汚くても、どんなに乱雑でも、混ざり合うことさえ出来ているのならそれだけで十分だと思っていたはずなのだけど。

でも現実は、すれ違いの末に無秩序に散乱する感情を、拾い集めて片付けることさえ出来ない。

愛の責任の所在をどこかに忘れているのか、そもそもそんなモノは更々持ち合わせていない愚劣な人間だからなのか。

そんな自分勝手な女だから呆れられたのだと思うし、傷付けることしか出来なかったのだと思う。

 

せめて最後、「好きでした」とは言ってほしくなかった。

「これだけ頑張っても」

そう彼が自分で言ったように、それまで彼にしてもらうことの方が多かったにも関わらず限りない不満しか言えない自分に、限りない憤懣(ふんまん)をぶつけてくれたらそれで良かった。

彼が最後に言った「好きでした」の言葉の刃にはギザギザで鋭い「かえし」がついていて、なかなか胸から抜け切れない。

抜いてしまおう、忘れてしまおうと思えば思うほどに「かえし」で胸がエグられていくようで、痛みに耐えない。

それほどまでに、最後になってやっと彼の気持ちが心に突き刺さり離れなくなった。

 

「ごめんなさい」と「ありがとう」の言葉。

彼にはたぶん、もう一生言えないのだけど。

しかし彼の残像を求めだす前に終われて良かったのだと、この期に及んでまたもや自分を可愛がり保身に走ることしか出来ない。

 

甘美とは、甘くて美しい。

それはチョコレートのような彼そのもので、いつだって心に一種の美しさと弛む甘さを添える。

そして時折、エグみはないけど甘さが過ぎる。

のどが焼けるように甘くて熱い、だけどたおやかな愛情はとても愛おしい。

ただ、私がチャチで不寛容で。

言い訳をするなら、彼はあまりに度量がありすぎて。慈愛に満ちていて。

私はそれを受け入れられる大きな器ではなかったのだということ。

 

例えば、私の舌に媚びる、あざとい甘味なチョコレート。

それは市販のインスタントなチョコレートだけど。

私の「愛」の機微に触れる、美しいたおやかなチョコレート。

それは彼そのものな唯一無二のチョコレートだった。

 

そしてここに残るのは、チョコレートに反して溶けがたい、切なく苦い後味を含んだ後悔ばかり。

やり場のない悔恨は、カカオを多量に含んだチョコレートのようである。

 

 

 

【今日ファミレスに行ってハンバーグを食べました。美味しかったです】

日頃ツイッターなんか見てると

「え、これ本当に本人?!すっげーお可愛じゃん。フォロバしちゃお~。」

なんていうアイコンの方が数名、彗星の如くフォローしてきてくださるんですよねぇ。

ありがたや。

で、一番悪質だなって思うのが、ツイート内容なんて見ないで、アイコンが可愛いかどうかってだけでフォロバしちゃう自分だと分かってはいるんだけど。

いかんせん、可愛い女には弱いので。

 

そういえば今日、ファミレスに行ってハンバーグを食べました。美味しかったです。

 

で、あとはブログの感想やコラムの感想くださった方ね。

こういう方は、一度でもコメントくださったら例えフォロワーさんじゃなくても、自分からフォローしに行っちゃう。

ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。墓場まで逃がしません。の意。

だから気を付けて。

 

そしてなんと、そのハンバーグには芋も添えてあった。美味しかったです。

 

で、きっとこれからもずーーっとツイッターやっていくと思うのね。

それはやはり、自分のブログだったりコラムだったりを応援してくださる方が、ツイッターには圧倒的に多いから。

ツイッターで出会ってブログ仲間になった方達だって沢山沢山いるし、思えばコラム連載のきっかけをいただいたのも、ツイッターだった。

 

そしてハンバーグ食べ始めてから思ったけど、やっぱステーキにしとけば良かったかなぁなんて。まぁ、いっか。美味しかったです。

 

うん、そうね。

これで十分に分かっていただけたと思うけど、所詮私は自分の事「コラムニスト」とか偉そうに語ってるわりに、構成とか一切なしにこうやってその時のノリと勢いだけで記事書いちゃってるような女なんだね。

もうこうなったら言っちゃったもん勝ちでさ、こんなんでコラムニスト名乗ってもいいのなら、この際カッコイイからジャーナルも掛け合わせていい?

 

あ、今思い出したんだけど、今日食べたそのハンバーグ、目玉焼きも乗ってた。好きなんだよね、目玉焼き。美味しかったです。

 

あの、私、ツイッターでは「ゲスエロコラムニスト」名乗ってるけど、「ミドリ@ゲスエロジャーナリスト」なんて贅沢は言わない。

だからせめて「定期刊行物@ミドリ」とか、どう?

「定期浣腸汚物@ミドリ」でもいっか。むしろこっちが本業じゃない?

もしくはジャーナルらしく突き詰めて「報道機関もとい尿道器官@ミドリ」とかさ、どう?

 

いかんせんケチだからさ、サラダバーもあったら良かったかなぁ、なんて。まぁでもね、つまるところ。美味しかったです。

 

もうここまできたら、もはや名前がオマケ。

どこに属してる女なんだよ(笑)出所不明すぎるだろ(笑)もはや不審者(笑)

しかし、かしこし(笑)マジかしこくもおそろしナリ(笑)

 

いやぁ、でもそのハンバーグ、やはりちょっと合挽きに感じたかな。惜しかったです。

 

だけど、そんなんでも、いかんせんコラム執筆の時間が本当に大事で、やっぱりやってる時は本当に楽しいから。

これからも出来るだけ長く、一日でも長く真面目にバカやっていけたらなぁって、しみじみ思いながら寄稿させてもらってる。

そんな感じですかねぇ、ここ最近は。

 

しかしメニューにはしっかり「和牛の旨みたっぷり黒毛和牛100%」って書いてあったんだけどなぁ。おかしいなぁ。おかしかったです。

 

何か美味しかったんだけど、おかしくって、ちょっぴり悲しくなってきたね。

さっきのツイッターの話に戻るね。

 

もちろんツイッターやってて、良い事ばかりではないのね。

それこそアンチやクソリプ、嫌な気持ちにさせるようなDM飛ばしてくる奴らだって沢山いるしさ。

もうそれは「ブログなんてやめちまおうか?」ってくらいの嫌悪感。

その傍ら一部界隈はさ、ツイッターで出会った人達とオフパコしたりさ、単にオフ会してみたり。

いいなぁ、なんて。単純にうらやましい。

楽しそうで。愛されてて。その瞬間には孤独なんて文字、一つもないでしょうね。

まぁ、でも実際オフパコなんて興味もないんだけどね。

私みたいな淫乱からすれば、男なんて「玩具」でしかないわけで、まぁ男からしたら私こそ「玩具」でしかないと思うんだけどね。

分かってる。それは。

だから自分から求めるなんて、滑稽な事は絶対にしたくない。

でもたまにはやっぱり、寂しくなる時だってあるし、淫乱だからって人の心持ち合わせていないわけではないし。

だからこれでも、時々は誰かと心と心のやり取りしてみたいなぁなんて。

感情の交換こ。それこそ繊細な心の澱(おり)の部分まで全部。

今更そんなの、淡い幻想でしかないのかなぁ?

でももうこの先、一生誰ともそんな事出来ないのかなぁなんて思ったら、やはりどうしても・・・

胸が詰まる。旨みもギュっ!あふれる涙。肉汁もジュワ~!

何か、ハンバーグと私って、似てるなって。

 

ただ違う事といえば、ハンバーグは中身がぎゅっと詰まってる事に対し、私の中身はすっからかん。

今まで何してきたんだろうね・・・

周りの友人たちが一生懸命に恋人と情意を重ね合っている中で、私はセックスばっかりしてきたから、セックスしかして来なかったから、こうなっちゃったのかな。

私は確かに淫乱だけど、でもセックスの際には毎回男は違えど、その時の刹那にそれこそ「一発入魂」してきたつもりだった。

だけど最近気付いたのは、ハンバーグってどうやら家庭調理する際にはレンジで「一発調理」出来るらしいじゃん。

なんだ、やっぱりハンバーグと私って、似てるね。

 

でもやはりこれは決定的に違う事。

それはハンバーグは混ざり合う事によって完成形により近づいていくけれど。

私が追い求める刹那に関してはどんなに身体を重ねたところで、気持ちの部分では一緒くたに混ざり合えないという事なんだね。

切ないね。なんか。

 

そんなハンバーグと私を掛け合わせるのなら、しっかり混ざり合ったハンバーグに対し、私なんてまさにどうやっても油と分離してしまうハンバーグソースっていう所でしょうかね。

しかも極めてアク強め。

だとしたら、せっかく美味しいハンバーグの味を損ねない為にも、やっぱりこれからも一人で生きていくしかないのかなぁ、なんて。

もしかしたら、混ざり合いたいと思う方がおこがましいのかもしれないね。

よく分かりました。

しかしあれだね。ハンバーグっていうのは、人生についてまで考えさせられるね。

あぁ、乳化したい。

 

今日も最後までお付き合いいただいて、本当にありがとうございますね。

皆さんには感謝しかなくて、もう・・・

 

 

あぁ、で、ごめんなさい。最後に。忘れてました。

 

もうちょっと食レポうまくなりたいのね。自称ゲスエロ食レポライターとしては。

「エロ」と「食」っていうのは切り離せない、実は密接した関係にあるんですよねー。

だからちょっとだけ、聞いてほしい。

 

今日食べたハンバーグ。

荒々しいまでの(粗挽き肉のことです)欲望が混ざり合い(肉とタマネギとその他のことです)、甘美な香りを発しながら、皿の上(ベッドの上のことです)に横たわる。

その艶やか(あでやか)なボディーから溢れる、肉汁(愛液のことです)。

少々濃いめに焼かれた肉(赤らんだ女体のことです)にナイフを入れた瞬間(挿入のことです)、鮮やかな断面が顔を出す(くぱぁ)。

ナイフを入れる度に(ピストンのことです)溢れ、だらしなく滴下していく肉汁(愛液のことです)。

そして口の中で噛み締める度に少しずつ少しずつ、最高潮に達し、凄まじく飛び散る肉汁(潮吹きのことです。あわよくば射精の意味も込めたい)。

嚥下するほどに、妖艶な笑みで見つめられているかと錯覚するほどの甘美なる快感(これについては解説もございません)。

最後に皿の隅々まで舐めまわしたくなるほどの(お掃除的なフェラチオのことです)旨さ。

健全な肉汁(双方の体液のことです)と食欲のエクスタシー。

それはまさに、恍惚の境地。(誠にごちそうさまでございました)

美味しかったです。

 

これをもう一度、解説なしで書くと。

「今日ファミレスに行ってハンバーグを食べました。美味しかったです」

 

ってか今更で申し訳ないけど、ハンバーグって相当エロいな。間違いない。

そしてすぐこうやって「エロ」とかそっちの思考になっちゃう。

やっぱりお父さん、お母さん、誠にすみません。

いえ、こっちが先だね。こぼりさん。ごめんなさい(笑)

 

ミドちゃん、コラム連載始めたってよ。

わたくしはこれまで何度も、記事を投稿する際には

「今日こそみんなに嫌われる。

気持ち悪がられて、ついに明日の朝には誰にもかまってもらえなくなる。」

といった恐怖と毎秒戦っていると。そう申してきたわけですけれども。

 

それでも記事を投稿する理由。

それは至極ドの付くメンタルマゾヒストであるからでして、スリル、恐怖、はたまた死。

そんなものと隣合わせにならなければ得られない「究極のエクスタシー」と共に、これまで公開ボタンをクリックしていたように感じます。

これ、高学歴ゲットしときながら風俗嬢にしかなれなかった女の、成れの果てね。

レンビン〜。カイカン~。

 

だがしかし、それは数々の包容を手放した一種のマスターベーションであるから、その扉を開けた途端。

襲ってくるのは更なる恐怖、スリル、多分、わたくし個人におけるキャラクターとしての死。

そして確実なる、後悔。

お気付きになりました?

おかわりしちゃってる。うん。

しかも「後悔」というデザートを添えて。

 

恐怖やスリルを乗り越えたその先には、また更に恐怖やスリル。

どんだけドMなんだ!

うん。ドMなんだ、ミドちゃん。

イってもイっても終わらない。

もはやそれは、恍惚の境地を華麗に飛び越え、地獄まっしぐらであるからに。

 

それでも何とかこうしてここまで続けて来られたのは、

「とっても面白かったよ!」

と、超高い所からニタニタ見下ろし、嘲笑ってくださるニンゲン界の愚民様方のお陰様だったように思います。

サンキュ〜〜。

 

そんな私が、ひょんな事からあるサイト様にお声掛けいただいて、なんとコラム連載をさせていただく事になったわけですけれども。

 

さらっと言ってるけどね。

うん。そうなの。

ミドちゃん、ライターになるのね。うん。

ライターで陰毛燃やすわけじゃないよ。

書くの。執筆ね。

 

 

このような事は全くもって想像すらしていなく、驚きすぎて震えたわけですけれども。

 

 

さて。

まずわたくしは、はてなでブログを始めた当初の経緯といたしまして

 

 

私がブログを始めようとした時、アメブロやFC2など色んなブログサービスがある事はわかっていたから、後はどこで開設するか決めるだけだったんだけど、どこも同様メリットデメリットはあって更によくわからなくなった。

しかしあまりに自分と色の合わない場所で構える気はさらさらなかったし、嫌だった。

そういう所は保守的なの。

だから確か 「うんこ ブログ」 「糞 ブログ」 とかで調べたらはてなブログが出てきたので、自分の帰る巣はここだと思い、そのままはてなで開設した。

いよいよはてながわからない - みどみどえっくす

 

こんな風に以前の記事で申しているわけですけれども。

糞を撒き散らかすにちょうど良い巣窟だな、と思いはてなに巣を構え軽い気持ちで始めたブログ。

 

しかし少しづつ少しづつ増えてくださる読者さんに、いつもいつもかまってくださるフォロワーさん方。

いつしかわたくしは、はてなでブログを開設して本当に良かった。はてなじゃなければダメだったのだ。と思うようになりました。

そして当然、はてなでなければ得られなかった、それはそれは素敵な素敵な出会いも、沢山沢山ありますです。

 

ですから、まさにわたくしは、はてなから皆さんと繋がって今日日までやって来られたのであります。

はてながなければ、今のわたくしは存在すらしていなかったのかもしれません。(大袈裟だよな。)

ブログを続けていたのかさえ、どうか。(これは真理。)

そんな中でいただいた、コラム連載のお声掛け。(誠に感謝。)

 

もしかすると、こんなにもお世話になってきたはてなの更新がめっきり減るかもしれない。

いえ、もしかするとではなく、確実に・・・

はてなは私のホームであるから、この寂しさは言葉には代え難く、そして・・・

正直に申し上げますと・・・そうですね・・・

それは荒磯に打ち砕ける波のように、激しく揺れる迷いであったり。

はたまた希望と寂寥の狭間で明滅し続ける深い葛藤に、苦しみ。

そして延々と悩んだり・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

してませんね。

 

むしろ即答。秒で決めた。「はい、喜んで!」

はてな?何それ、糞の肥料?糞と一緒に畑に撒くやつ?

 

全てはわたくしの好奇心。それだけの為に。

それしかありません。

こんな腹づもりで良いのか、全くわからない。

でも私は言われたい。

 

「こいつ、元売女のくせに記事も書けんのかよ・・・

ダテに糞、食ってねぇや・・・」

 

って、言われたい。褒められたい。うん。それだけ。

むしろそれしかない。下心の塊。

何なら汚物代表になりたい(笑)あ、笑っちゃった。失敬。

 

しかしこうした好奇心、下心をいやがうえに満たせるのは、これまでブログを読んでくださった皆さん、そしてお声掛けくださったサイト様のお陰様様様様サマンサターバサっ!!なのであります。

とってもつまんないね。わかる。ごめんね。

 

わたくしはこれまでリアルの生活でも、自分が風俗嬢である事、またはそうであった事を隠さずに、ありのまま生きてきていますけれども。

しかしこれほどまでに風俗嬢で良かった、糞食って生きてきて良かったぁなんて思う事はなかったから、疑問を抱きながらでも全肯定してくださる皆々様に感謝、感激、雨アラレ。世代ではないがマンモスうれP---!の境地にございます。

 

ブログを開設して4か月余り。記事投稿数50ちょっと。いや、60?

ブログやってると、色んな事があるんだなぁって、常々思っていました。

 

まさにクソリプおじさん達からの総攻撃。

読者さん数、フォロワーさん数に釣り合わないアンチの数。

正直に申しまして、もうブログやめたほうが身のためかもね、と思った事の方が多かったように思います。

しかしその中でも、読者さん、フォロワーさん方の彩の濃さ。密度の高さ。

日々濃厚なお絡みをしてくださる皆さんに、孤独ではないのだと教えていただいたと言っても過言ではありません。

本当にありがとうございます。

 

そして更に、声を大にして言いたい。

もう私はウジ虫ではない。

ここに来て、ようやくハエとして飛び立てる時が来たのだと。

 

無益どころか有害な情報しか得られないこのブログで、物好きでコアな読者さんばかりを集め、サナギから蝶へは到底無理だけども、せめてウジから蝿になって飛び立ちたいと、小さな小さな野望を持つ汚物野郎(私)の巣窟がここです。

社会の底辺も底辺の荒地で、いつか蝿になれるのを今か今かと、それだけを楽しみに糞に埋もれながら生きているけれど。

飛び立ったところで糞の周りをブンブン飛び回るだけで、むしろそれしか能がないけれど、それが充分自分らしいかな、とね。

むしろそちらの方が居心地が良いもので、ご理解ください。

日陰で残飯食って、何とか生き延びてるような女です。

女の私が、初めてペニバンを付けた時の話をしよう。 - みどみどえっくす

 

 

あ、今バカにしたな?まぁいい。

 

ヤクザに献上金を捧げるかの如く、この卑猥な狂文、妄言を規約的な意味でどうにかBANしないでほしい、と。

金さえ払えば何とかなるかもしれないと、信じ続け、払い続けてきたはてなへの月額・・・いくらだっけ?1000円?うん。

違ってたらごめんなさい。

 

 

金、信じてよかった。やっぱ世の中、金。

 

いつだったか、わたくしの大切なフォロワーさんが、クソリプおじさんからの攻撃は「肥料」にすれば良いと。

そんな心強いお言葉をかけてくださった事がございました。

 

なるほど。

それからというものわたくしは、これまで以上にクソリプおじさんやアンチだからこそ目を背けずに、今にコイツらが肥料となり、更には自分の原動力となってくれると。

あ、コイツらって言っちゃった。すみません。

コイツらが自分のエンジンになってくれると。

いや、むしろ自らそうしてやろうと。

そう信じて、どんなに嫌な事を言われようとも決して目を背けず、絶対に無視もしない。

そして感情的にもならない。

そう腹に決めて、これまでやって来たわけですね。

 

結果まさに、クソリプおじさんやアンチが肥料となってくれたわけです。

元売女、タダでは絶対に転びたくない。

それが証明出来た事が、今は何より嬉しいです。

 

そして読者さん、フォロワーさんがまさに最終的なパワーになってくださって、これまでブログを続けて来る事が出来ています。

本当にいつもいつも、ありがとうございます。

 

 

何だろうね。

ここまであなたのハートと共に、ざっと3800文字ゲッチュですよ。

なのに今更になってなんて紹介して良いか、全く持ってわからないので、いきなりドン!!

 

ミドリのコラム 第1回「男の仕草で好きなのはタバコを吸う姿」

 

ちなみに最後までスクロールしていただくと、コメント欄があるので、是非是非。

あなたからのエッチなコメントお待ちしておりますです。

エッチなコメントじゃなくても可。むしろ全然可(笑)

 

そしてそんな事より、お世話になっているサイト様。

女性向けのアダルトグッズ・エッチ動画 - 大人のオンナの事情♀

 

  

そこの女子!いや、男子もね。

  

まさに編集長様様のガチンコ具合が、拍手ものです。

嘘偽りない、体当たりがショーそのもの。

私が言うガチンコファッキンって、こういう事よ。

本気でエロを楽しみたい。人生かけて!!!!っていうのが伝わってくるよ。

このブログ読んでくれてる男前な女子は、一発で気に入ると思う(笑)

 

そしてコンテンツそのものが豊富も豊富なので、今晩から是非!

エロい女!男!一緒に悶々した夜を楽しもうよ!

 

これからも、どうぞよろしくお願いいたしますです。

 

 

 

 

 

 

 

 

セフレとの5年間 2

あれからまた、毎日のように

 

「おはようございます。」

「風邪、ひいてませんか。」

「寒くなってきたね。体調管理、しっかりね。」

「今日は仕事の飲み会で遅くなってしまいました。おやすみなさい。」

「また明日、連絡します。」

 

そんなLINEが届くのだけど。

 

始めこそ、返信すらしていないのに届き続けるそのメッセージに得体の知れない恐怖を抱いていたのだけど、もう今となっては

「気味が悪い」

その一言。

 

 

www.midomidox.com

 

 

私は相変わらず返信出来ないでいた。

いや、正確にいえば以前よりもずっと、返信しづらくなっていた。

既読すら付けないメッセージが溜まっていく度にそれが一つ一つ、確実に重りとなり、憂鬱に、そして淡つかに、水分を失うように心は乾いていったように思う。

 

未読のメッセージがいよいよ80件になろうとしていた時、そろそろ耐えきれない鬱屈と陰湿な焦燥から、久しぶりに開いてみる事にした。

 

そこにはこの5年間、毎日変わらずに来ていたメッセージと、ほぼほぼ変わりない機械的とも取れるようなメッセージ。

ただ一つ違ったのは、いつまでも既読にならない事に対する、不安や心配のメッセージが増えた事だった。

 

「ここ数日、いつまでも既読にならないので心配しています。」

「もう、会いたくないですか?」

「体調、悪いの?」

 

そして最後のメッセージはこれで終わってた。

 

「嫌いになったとか、もう会いたくないんだとか、そういう気持ちでいるならはっきり言ってください。

僕は君の気持ちを尊重したいと思っているし、何よりすがりたくなる気持ちはあるけれど、その前に、やはり君の事が大事だという気持ちがあるから。」

 

何だかなぁ、参った参った。

実に気味が悪い。

きっと既読になったらなったで、またメッセージが来るんだろう。

なら読まなきゃ良かったな、と。

 

大体セックスのみの関係だったはずだが、どこでどうして、どうやってここまで拗れたのだろう。

気持ちのやり取りだけは絶対にしたくはないと思っていたし、セックスが終わった後でも割とフランクに構えられる仲だからこそ、これまでの5年間

「絶対に恋愛関係になる事などありえない。」

と、信用してきたのに。

それはまさに売り時を間違えた不動産のようで、互いの関係全体が露骨に不利に働いてた。

 

しかし、どことなく掴み所のない黒々とした苦い気持ちが、体全体に広がっていくのが手に取るように分かった。

いつかは必ず終わりが来るんだろうと漠然と思い続けてはきたのだけど、こうも辛くなってしまうと。

自分の中にも「情」ってあったのだなと思う。

 

今更になって、メッセージ一つ一つの重みを感じた。

「おはよう」そのたった一言でも、そのメッセージを読む時。

私の頭の中に彼の顔が浮かぶように、きっと彼もその一言一言、メッセージを送ってくれる時には私の事を思ってくれていたのだろうなと。

 

今更気付いても、遅いんだけどね。

だってこの5年間、私は自分の事しか考えていなくて、自分が一番に可愛くて。

彼の気遣いや気持ちに気付いてはいても

「たかがセフレに何やってんだろうね。こいつは。」

って、薄ら笑いで心の中では若干軽蔑すらしてた。

 

遠い九州から自分の為だけに会いに来てくれることも、特に何とも思わなかった。

陳腐な誠意を強引に振りかざしたり、最低限の気配りはすれど結局は、腹の底では別に来たいのなら勝手にくれば。そう思ってたのだと思う。

 

何故か今更になって彼の一つ一つの気持ちが、文字通りに抱えきれない程の重圧となって腹に溜まり、それは鉛のような感覚に吐き気がした。

彼に対してではなく、自分の人間性について深い嫌悪感と葛藤、疑念を抱いた。

 

自分がもっと人間的に成熟していて、もし彼の気持ちや気遣いを溢すことなく真正面から受け止められていたのなら、今頃もっと違う私だったのだろうか。

もっと違う二人だったのだろうか。

あまりにぞんざいに、おざなりに過ごしすぎた5年。

素直に思う「ごめんなさい」の気持ちに、今更涙が止まらなかった。

 

私は彼に

「出来るだけ、あなたに合わせて時間空けます。

今度は私がそちらに行くので、都合の良い日時をいくつか指定してくれませんか。」

と、九州なんて行った事がないのだけど、せめてもの罪滅ぼしの為にそう送った。

 

すると彼から、5分と経たずすぐに返信が来た。

え、気持ちわる、と思った。

 

「連絡くれて本当にありがとう。

もう無理だと思っていたよ。諦めるしかないかと思ってた。

今ここで拗れるようなことはしたくない。

色々なことは、会って直接話そうか。

それがどんな事でも、僕は受け止めるつもりで行くよ。

だから君もあまり張り詰めないでいて。

逆に、都合の良い日を教えてください。

僕は有給を使うので、僕がそちらにすぐに行きます。」

 

重いな、と思った。

有給など使ってくれなくても全然良い。

しかも、有給なんてすぐに使える職種でもなかろうに。

更にまたこちらに来てもらうとなると、罪悪感から思った事が素直に言えなくなりそうで。

 

ここでもやはり、私は自分の都合ばかりを考えた。

あれだけ泣いたにも関わらず、一晩寝て起きれば私はやはりこういう女なのだ。

いつだって自分が可愛いし、常に自分の都合しか考えていないのである。

そして挙げ句、出した返事はこう。

 

「幸甚に存じまする。」

 

 

今回セックスはしないつもりだった。

むしろこれまでセックスしかした事がないのに、言わなくてもお互いにそう思っている事が分かる、改めて5年の月日の長さを感じた。

 

 

大学時代、よく学食で一緒にお昼を食べたことはあったが、お互いセフレの関係になってからの食事はこれが最初(で最後のつもり)。

初めてお昼に誘われた時の事を思い出した。

 

私は学校でも挙動不審であまり人と話したくなく、むしろ話しかけられてもうまく返答出来ない事が多々あったから、割と浮いていたと思う。

しかも男ばかりの学部だったからほぼ一人で過ごす事が多く、そんなんだから人に「ご飯一緒に食べよう」と言われた事がとても驚いて、何も言えずに文字通り呆然とした。

金でも取られるのだろうか、と思いバッグをキツめに持ち直した。

 

そんな私を見て彼は非常に軽快に笑い

「だって3限も一緒だったでしょ?

ご飯も一緒に食べようよ。

独りでご飯食べるの、嫌いなんだ。

隣にいてくれるだけでいいから、付き合ってくれたら嬉しいのですが。」

と、割と強引に私の肩を押し、勝手に

「僕と同じでいいですよね?」

と、メニューを決めだした。

 

非常に怖かった。

こんなに馴れ馴れしい人が、こんなに間近にいたのか、と思った。

明日からの学校生活が、とても不安になった。

 

しかし、その時久しぶりにまともに人と話をした気がした。

と言っても、彼がどんどん勝手に話題を出してきては、私はそれを笑って聞いて。

たまに彼の質問に答える程度だったのだけど。

 

それから彼とはゆっくり、少しずつ仲良くなっていったと思う。

あまり長時間人と会話する事を好まない自分にとって、お互いを理解するのはだいぶ時間がかかったけれど、それでも彼と話す時間は貴重な時間だなと感じるようにはなってた。

 

そうだ。思い返せばそれまでは、大切な、唯一無二の友人の一人だったのだ。

どちらかが元気が無い時、体調を崩した時にはもちろん心配し合ったし。

テストや深夜まで続く長い実習、レポート地獄はここぞとばかりに、大袈裟に励まし合ってやって来た。

テスト前の「留年」という文字に震える恐怖を、やんわり笑い飛ばしてくれたのもお互いの存在だった。

テストが終わった後の解放感は、まさにシャバに出たような感じ。

出所してから何年かぶりに会ったかのように、またバカな話を狂ったように延々と繰り返し笑いあう。

精神的にも身体的にも辛い学校生活にたまに辟易しては、「お互い刑期を終える腹づもりで最後までやって行こうぜ。な。」と肩を組んだ事もあった。

それはとても愚にも付かない、どうしようもなくバカな話もしたし、将来の事や夢、割と真剣な話も尽きる事なく交わした事もあった。

それが私の青春の約90%。

これぞ大学の級友、同期と言った感じに。

 

しかし身体を重ねた途端、どうしてこうも彼の存在が粗雑に、ぞんざいになってしまったのか。

それまで大切に築いていたはずの友情が途端になくなり、それまでの会話も記憶も全てが余すことなく、無味乾燥に色褪せた。

 

どうしても思い出せなかった。

何故、彼と身体を重ねる事になってしまったのか。

 

糞紙のように粗末でも、確実に積み重なってきたこれまでの彼との時間を思い出しながら、待ち合わせ場所に向かった。

何をどう伝えたら良いのかすら分からなくて、改めて5年が重く感じた。

自分の意志とは全く違う世界で記憶と感情がフルセットで山となっていた事を今更になって知り、とても困惑した。

こんなつもりじゃなかった。

でも確かに時間は積み重なって、お互いここまでやって来た。

ただ情意と時間はいつでも一揃いに混ざり合い、それはもはや分離不可能なのだという事実を、知らなかっただけ。

 

久しぶりに会った彼はいつもよりとても笑顔で明朗で、私はそんな彼にどんな表情を返したら正解なのかとても悩んだ。

 

「久しぶりだね。元気そうで、安心したよ。

まず、お腹空いちゃったよね。

君とご飯食べるのなんてすごく久しぶりだから、なんか照れるよね。

でも、思い出すよ。昔の事。」

 

最後ほんの一瞬、彼の表情が曇った。

今日は、やはり食事ではないな。互いにそう思ったのだと思う。

彼は急に険相な表情で一点を見つめ、すぐに

 

「やっぱり、少しゆっくり話せるところに行こうか。

今は、食事しながら呑気に語れるような気分ではないな。本当にごめん。」

 

そう言いながら、初めて一緒に学食に行った時と同じように、少し強引に私の肩を後ろから押した。

しかし突然の事で、意思に反して体がそれを拒絶した。

彼は動けなかった私をそのままに、腕を引く事もせず。

やりきれない横顔を隠しながら自身のポケットに両手を入れ、今度は私を置いて前を歩き始めた。

彼の覚悟を感じた。

その時私が彼に付いて行かなければ、きっとここで綺麗サッパリ終わったのだと思う。

 

いつもならばホテルに着き、部屋に入った途端どちらからともなく服を脱がせ合い、ベッドにたどり着けない時すらあったのだけど。

こんなにも冷静に部屋の中まで辿りついたのは、恐らく初めてだった。

服を脱ぐつもりもないし、脱がせるつもりもない。

久しく彼と過ごした事のないプラトニックな時間は、それこそ持て余すようで、こういう気持ちはどうやり過ごせば良いか全く見当がつかない。

心の置き所が探し出せずに、焦燥でつい足が止まってしまった。

 

「どうぞ?

僕は女性より先に座れないタチだから、君が先に座ってくれないと僕は休めない。

これでも急いでここまで来て、若干疲れてるんだよ。

大丈夫。今日は隣に行かないから。

安心して座ってくださいよ。」

 

苛立ちと悲しみを孕んだ、これまで聞いたことのない彼の声は、とても震えてた。

その震えた声に、涙が堪えきれなかった。

泣くつもりもなかったし、笑うつもりもなかった。

これまで同様、抱き合わない時には感情のやり取りをしない淡々とした時間を過ごして、それで終わりで良い。

むしろ綺麗サッパリ終わるには、それしかないと決めて来たのに。

 

「何で君が泣くわけ?

泣きたいのは俺の方だよ?

この5年間、どんなに気持ちが折れそうだったか。

会えない、返事もない。

とても狂いそうだったよ。

でも俺は、そういう君でも極力尊重したいと思ってこれまでやってきた。

そしてそこを責めるつもりは更々ない。

でもここで泣くのはズルいな。本当にズルい。

何の涙なんだよ、それ。

いつもみたいに、さっさと帰れと言ってくれよ。

むしろそれを聞きにここまで来たんだよ。

じゃなきゃ、俺は今度こそ君にすがりたくなるよ。

頼むから帰らないでって、むしろずっと一緒にいてくれって、泣きたくなるよ。」

 

彼が一人称を「俺」と言うのを初めて聞いた。

感情的な彼を、初めて見た。

ずっと彼の顔が見られなかったのだけど、彼が泣いているのがよく分かった。

 

予想に反してと言えば良いか、案の定と言えば良いか。

酷く縺れた時間を一つ一つ丁寧にほどく事すら、気の遠くなる作業。

そこに寄生虫のように纏わりつく感情は、網の目なんて綺麗なものじゃない。

糸くずのように絡み付いて、ほどこうとすればするほどに錯綜するばかりだと感じた。

それほどまでにこの5年、根底ではすれ違いばかりが起こっていたとは私だけが知らず、どこから手を付ければ良いかまるで分からなかった。

 

お互い何も言えずに不毛な時間ばかりが過ぎ、遂に私は自分の気持ちを伝えられなかった。

 

「とっとと帰れば。」

 

その一言で片付けるには、到底5年は長すぎた。

かと言って、情けない事に自分の気持ちを言語化すら出来ないし、今何を言ったところでそれは、結果言い訳や自己保身になる自信があった。

恐らくそれだと更に彼を傷付ける結果になるのだろう。

いくらなんでも、それくらいは分かる。

 

結局、無言を3時間ばかり。互いに何も言うことが出来ずに別れた。

5年という歳月は、さよならの言葉だけでは回収しきれなかった。

 

これまでの時間、感情、全てにまとわりつき覆いつくし、意地悪く絡む藻草のように、海底に沈んでいけたらどんなに楽か。

散漫な時間がだらしなく滴下していくさまは、生き地獄そのもの。

またもやそれは、甘美と引き換えの終わらない悪夢を見ているようである。

 

アラサー日常の思いをつらつらと・・・

先日わたくしは、日頃のフラストレーションを晴らすべく、日中お散歩に。

その頃まさに、いささかメランコリックの渦中におりまして、何とも気分穏やかでなく、特に何があったというわけではないのですけれども・・・

 

近頃は特に、日常を酒に逃げるという行為を繰り返ししていたものですから、たまの外の空気は誠に良いものですね。

若干粘り気のある潮風というのは実に不快極まりなく、とても嫌いなんですけれども、特にこの季節の湿った潮の匂いは、また更に更に、何とも物憂げで、テラスで海を眺めながらテーブルに両肘をつき、気付けばおいおいと泣いておりました。

 

この歳になって思う事と言えば、孤独ぶりたがりの時期はとうに越えてまいりましたけれども、いよいよ現実味を帯びるのは、本物の孤独感。

 

二日酔いの胃に染みる、温かいブラックコーヒーがいよいよ心にまで沁みだし、普段人の温もりとは全く無縁に暮らす自分にとっては、もうそろそろ末期であるのかしら・・・と。

 

「誰かに抱きしめてほしい」とプラトニックな願いを持つことも、割とバカにされてしまいそうな年頃でして、そんな中ぼんやり思う事と言えば

「もうこの先、一生独りなのだろうか。」

そんな事のように思います。

 

ある程度の年齢を重ねてくると、セックスとは外せないものとなってしまうのでしょうか。

ことわたくしに関して言わせてもらうならば、本当に大切な人については、途端に触れられなくなってしまうのだと思うのです。

 

どちらかと言えば今日日まで刹那的な感情こそ大事に過ごしてまいりまして、まさにそれ以上でも以下でもなく。

長く続くことなど到底有りえない、不埒で稚拙な愛情を、割かし本気で錯覚してしまうほどには孤独だったように思います。

 

しかしそれはあくまで刹那。

幻想とまではいかなくとも、時間が過ぎればそこに残るものとは「虚無」と「虚妄」。

 

この繰り返しは、近頃妙にわたくしを困らせておりまして、困惑の底から捨て鉢な気持ちがふつふつと。

正直なところ、ほとほと困り果てております。

 

しかし辟易しても黙り込む暇などなく、都度煩悶を繰り返す結果になったとしても、これまでの自分の人生をしかと受け止め、尚這ってでも前に進まなければ・・・

 

一応、これでも前向きな気持ちはあるのですよ。

人並み程度に。

 

人を愛する気持ちというのは正直に申し上げますと、わたくしにはあまり理解できない感情でございまして、その部分を考え出すとわたくしの頭の中には常に三点リーダ

 

うーん・・・

うーん・・・

 

非常に苦しい時間を過ごす結果となってしまうわけですけれども、そもそも感情というのは理屈ではございませんわけでして、理屈で語れる感情論とはとてもとても陳腐。

そうすると、自ずと「本能」という文字がわたくしの中では浮かび上がってくるわけなのですけれども、この「本能」がこれまた厄介。

 

わたくしは人の好き嫌いが非常に激しい性質(タチ)でございまして、無理なものは断じて無理。

しかしどうやら、その反面愛すべき人というのを自分の「欲望」の管轄を越えた「本能」として求めてしまう傾向にあるようでして。

やがてそれは、熱い熱い焼石のようなものを胸に抱えてしまいそうで、とてもとても怖いのです。

 

理屈で語れる愛は、極めてイミテーションであると考えます。

しかし。

 

清い心で想う愛であれば、それは圧倒的慈悲となり。

汚れた心で想う愛であれば、いずれそれは憎しみに。

 

燃えるような愛に身を焼き始めたのならば、最後。

それは燃え尽きるだけのように思うのであるから、それならば、繊細な炎を消さぬようゆっくりゆっくり、感情を添わせてゆけば良いのだと分かってはいても・・・

 

愛とは、心が縁故に触れて起こるものであるから、それならば「本能」よりもまずは、心のケアが先かしら・・・

 

うーん・・・(三点リーダな脳内)

 

 

 

 

 

すみません。全て妄想の範囲内、作り話です。

いよいよネタが無くて暴走しました。

実にすみませんです。お散歩も行っておりません。

 

酒ばかり飲んで二日酔いの胃にブラックコーヒーが沁みたのは、本当。

 

ここまで書いて思うことはと言えば

「気持ちわりぃ女だなぁ」と。

 

誠に遺憾。

そしてエロも無い。陳謝。